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できるだけあわせて、なるべく逆らわない

銭湯やサウナに入る時、メガネを外す。視力が低いので、最初見えないなと思う。手と足と人の声で距離を測る。露天風呂や外気浴で、外から入り込む綺麗な光の反射が揺れてが見える。その瞬間、充分に何かが見えていると感じる。アウトラインではなく光の塊や空間としてぼんやりと音を全体で享受している、動物が見ている世界、画家が見ている風景。

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森の中を飛び回る気持ちで歩く。いくつかの地点を確認する。今の花の咲き具合や果実、虫の動きや土の柔らかさ、見たことのないキノコを見つける。気の絡み合いと葉の具合と光と匂いと遠くから聞こえる音が渾然一体となった情景になにかを感じる。犬と話す。知らん爺さんと話す。

パソコンに目を落として、何か制作をしようとする。ノイズを遮断してソフトウェアを立ち上げて関連する同業者のtwitterやらなんやらをチェックして表層のスタイルをなんとなく参考にしようとする。
この文章ではなるべく、そういった仕事がある効率化や生産性と呼ばれているものによって無理やり狭められてしまうような状況に対して、パソコン作業をする時間や空間、人々とのつながりを作ること自体を仕事として捉えようとしている。空間と生態系があれば自ずと生まれるものがある。
ブライアン・イーノのシーニアスという言葉。(文化的および知的進歩の多くは、あるシーン(やリアルな場所)から、一種の集合的魔法をおこした多数の人々の産物である)

私はweb制作を行なっている人間なので、その中で話を進める。この文章は社内向けのデザインから実装までの一貫して作ってみるワークショップで、なぜ実装を理解することが重要なのかという問いに対しての答えを見つけようとしている。
webサイトにおけるデザインの役割とは大きく2つに分かれているように思う。1つはデザインする対象が持つ文書構造やデータ構造に対して整理して、素直に並べていくこと。もう一つは、利便性の意味や新規性、対象の持つ世界観の表現などに合わせて拡張する、負荷をかけるようなものだ。
そのどちらも必要なもので、どちらかが欠けていても面白みのないものになるだろう。(前者はエンジニアが作る簡素なドキュメントサイト、後者はグラフィックデザイナーが作る画像やレイアウトを中心としたサイト)

web技術の変化、ブラウザ対応や、フレームワークを試してみること、基本的なhtml、cssやJavascriptの知識を学ぶことがなぜデザインにつながるのだろうか。(最初に断っておくが、必ずしもデザイナー自身がコードを書くべきという論ではない、あくまでも仕組みを学ぶこと、理解をしようと努めることが重要)
webサイトをどこかで表示させるということは、Figmaで作ったデザイン画がそのまま表示されることではない。画像を表示させるだけにしても、avifなのか、webpなのかpngなのかという形式の選択もある。サーバー(サービス)はどこを選ぶのか。解像度はどうするのか。画像を表示するだけでも無意識でこのような幾つかの選択をすることになる。

webとは、幾つもの技術やサービスの寄せ集めでそれは今も変化している。変化する環境の中で小さな家を建てる。手入れをしなければ風化する。webデザインは、庭を作ることに似ている。花は育ち咲いて枯れていく、次の植物がまた育つ、その土地固有の特色がある。私が思う庭とは、一度全てを更地にして自由に何かを植えていくようなものではない、既にあるもの、周りの環境を生かしながら作っていくようなもの。ジル・クレマンの動いている庭。完全に意図通りではない偶然性を取り込みながら手入れをしていく、日本の庭園の石をそのまま使って一部だけ削った土台。

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落合陽一のデジタルネイチャーという考えは今の状況をうまく表していると思う。サービスには苔が生えたり、虫が湧いたりしている。BotやSpamはそういったデジタルワールドにおける道端の上に落ちている空き缶や繁殖する何かとも言える。AIにとっての土壌の制作を日々人間が行なっているとも言える。生活者が行う、ある製品を別の用途に使うこと、ある決まりをかいくぐって別の寄り合い、空間を作り出す技術。ミシェル・ド・セルトーの日常的実践のポイエティーク。Facebookが作った技術を使う。ただし別の方法で。

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korg Berlinにおけるものづくりの方法。プロトタイプを作り、プログラミングをしてレーザーカッターを触って試作品を作る、それで遊んでみる。物質が叩かれて震えること、現れる音の波形。具体的な技術があり物質と道具、制約の中で製品が形になる。触りながら考えることで現れる奇妙さがある。

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webデザインにおける技術を学ぶこととは、その土地の固有の特性を学ぶことである。ある状態を目指すのに全てを更地にして一から作るような資金や労働力があればよいのだが、多くの場合において限られたリソースの中で制作をしていくことになる。その場合は、土地固有のものや、近くにあるものの特性を活かして作ることが必要になる。建材を触りながら考えること、こういった用途に使えそうだなと思いつく。技術について知ることは、特性を引き出すために必要なことで、それなしでは思考はあくまでも抽象的なものにとどまってしまう。技術について学んで素直に使うのではない、技術自体を木材のように素材として別のものに使えないだろうか、ズラすことはできないだろうかというところまで行き着く。別の使用について考えることこそがwebにおけるデザインの領域だと思う。

周囲の環境がwebの制作に影響を与えている。その環境を作っているのがフレームワークやオープンソースのプロジェクトやサービスや諸々でそういったものに携わることも翻って自身の制作に影響が出てくる。(かつてのweb業界ではそういった考えでブログ執筆やOSSや仕様の策定などに積極的に関わろうとする人が多い印象だった。)そういった意図的な活動であれ自然な行動であれ自身の痕跡もデジタルネイチャーを構成している。新しいサービスや言語やフレームワークや仕様はその環境自体に大きく影響を与えるもので素直に作るものや別の使用でも現状の限界を超えるような手助けになる。環境を作ることも、そこを歩き回ることも制作の一部として捉えることができる。議論やソースコードの一部。今日自転車で通った道端に落ちていたマクドナルドの袋。Discordでの友達との会話。

できるだけあわせて、なるべく逆らわない。(ただし、ある部分を除いて)

周囲の環境を知ることは、節約の技法である。なるべく節約をする、表向きにはそれは少ない力で物事を成り立たせるためにである。温存された力を使うのは、環境において普段は起こらないような現象を起こすために使う。普段はこういう使い方をするという部分に対して、意図的にズレを生じさせる。違和感を起こすことで思考や新しい展開のきっかけを掴む。技術に対して、学んで従順に従う、ただしそれは根本的な部分で裏切りを起こすためである。最初に出てきた、エンジニアが作る簡素なサイト、グラフィックデザイナーが作る画像やレイアウトを中心に考えられたサイトも技術に対して素直かどうかの違いはあるのだが、大きな部分ではどちらも枠組みに対して従順であるという点で同じである。メニューの配置や、毎回同じ場所に出ること、書体が同じであることなど暗黙的な了解に致命的な打撃を与えるためには学ぶこと、その向いていないことが何なのかを知る必要がある。

カールマルクスの資本論を読む。分業が発達している19世紀の工場労働について。
「彼の労働力は、それが売られた後にはじめて生まれる連関のなかでしか、すなわち資本家の作業場のなかでしか機能しない。マニュファクチュア労働者は、その自然なありようからして、自立的なことをする能力を奪われている。それゆえ彼らは、もはや資本家の作業場の部品となることによってしか生産的な活動を展開できない。」

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分業化された生産とはこのような資本に対する従順な姿勢を生みだす。デザインから実装を行うということは分業化に対してそれ以前の未文化の状態、可能性を問いただす。資本から望まれる形自体に対して別の回答ができないだろうかと考えることができる。作ること、学ぶこと、勤勉であることの意味を反転させる。慣習の外側、源流のラディカルさ。

OSSの開発やツールを作ることでメタ的な視点でシーンを作るのが大切と言いたいわけでもない。少なくとも、何か上達しようとする時、できること全てをやる必要がある。そのために、範囲を限定してはいけない。そこからデザインや技術、空間の散歩やあらゆる動きによって、観客から空間や生態系そのものになる。思考の材料、ある別に地点への土台、反復の動きに少しのズレを生じさせることでいつの間にか出来上がる何かになる。

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